学歴たけで判断する残念な人々
サラリーマン時代によくあった「どこの大学出身?」と言う質問。
「大学は行ってません」と答えると、それまでは対等もしくはお互い尊重した接し方をしていたのが、答えを聞いた途端に態度がかわり、こちらを見下す態度や言葉遣いに変化する。
いろいろ相談して来た人が、どうせわからないだろうと言わんばかりの反応に変わったり…。
最終学歴を聞いてその人を判断するというのはサラリーマン、特に大手企業になるほどその他の人が多い。
会社によっては学歴で会社の役割や出世が決まるところも。
自分の経験からそんな学歴を言う人ほど使えない、能力が低い人が多かったし多いと思う。
たくさんの記憶はしているが、その知識を活用や利用出来ない、ただ知ってますだけの人。
パソコンのハードディスクの方が記憶に間違いないし、キャパシティがよほど多い。
パソコンのない時代ならまだしも今の時代、記憶自慢はどれだけのものか。
例えばいろいろな海洋生物を見て「これは魚ですよね」と考える間もなく聞く人。
シルエットや餌などからおおよその判断を出来るはずなのにそれが出来ない、
教えられた事のそのままは覚えてその覚えた知識の応用力ゼロ。
今では直ぐにネット検索で出てきた事を鵜呑みするパターンも。
思考とはどんどんかけ離れ、見たとおり聞いたとおりを覚えるだけの、パソコンと差がない人、発想力、応用力に乏しい人ほど妙に学歴にこだわる。
そこにしがみつくしかないからなのかもしれないが…。
様々な事情で大学を出ない人でも、頭が良いなと思う人はいる。
仕事が出来る、物事を適切に処理できる、応用力・発想力が優れた人など。
そう言う人を見るたびに、学歴判断する人はとても残念な人にしか思えなくなる。
肩書きで態度を変える人、人を判断する人は、中身はどうでもよくて表面にしかその価値を見出せないのだろう。
そんな人が組織の上にいる社会は、残念で仕方がない。
近年その結果が大企業の経営危機・破綻や事業撤退やシェアの縮小など、日本企業が海外企業に抜かれていくなどの結果に繋がっているような、残念な状態を生み出している気がしてならない。
子供を騒音扱いする前に
よく耳にする保育園や幼稚園の建設反対。
その理由がどうにも納得出来ないのが、子供声かわうるさいと言う理由。
送迎の車のマナーが悪い、親の井戸端会議がうるさいなどは納得出来るし、言われて当たり前だと思う。
しかし子供の声が騒音扱いなのは話が違う。
大人しく声が聞こえない状況の方がよっぽど不自然だし何か問題があるのではと心配にさえなってしまう。
子供声が聞こえると言ってもあくまで日中の話で、車の音や生活音などあって当たり前の時間帯。
子供が近所で遊ぶ声など昔なら当たり前にあった。
それを騒音扱いするのはいつの頃からなのだろうか。
子供声が聞こえるのは次の世代がいる証。
過疎化して人がいなくなるよりよっぽど良いだろうに、それをクレーム対象にするとは。
そんな人の多くは老後を過ごすような年配者が多く、静かに暮らしたいなど言っている。
そんなに静かな生活を望むなら、田舎の何も無いようなところで周りに人もなく、終始静かな環境で暮らせば良いのに。
そう言う人に限って自分の都合のいいことだけは過剰に主張、要求する。
あえて言うなら、既に社会のお荷物な存在よりもこれからの社会を支えていくだろう存在を大切にする方がよっぽど大切なこと。
文句を言うなら社会で守るようなことはやめて、年金も保険控除もなくしてお荷物は太古の昔のように山に捨てるくらいの事をしても…。
自分都合だけの事を言う前に共存するために、妥協点を見いだすくらいの前向きなことをしてはどうかと思う。
出来ないなら過疎化した田舎に強制的に移住させるくらいの事をしてもいいんじゃないかと。
だんだんと嫌な社会になっているなと思う。
今は「近頃の若者は…」だけじゃなく
昔からよく聞く「近頃の若者は…」という口癖。
マナーの悪さやよくわからない言葉づかい、相手に対しての礼儀など、ついつい言いたくなる気持ちはわからないでもない。
しかし最近はその前に別の思いがよぎってしまう事が。
「最近のそれは最近の年配者は…」という思い。
若者はと言う前にまずは自分だろうと。
道を歩いていてもまず譲ることはしない、特に複数人で歩いている年配者は横並びで道を塞ぐように歩き避けようとせず、ぶつかると睨まれる事多々…
整列して乗り降りする中横から当たり前のように入ろうとするし、店舗などで狭い通路を塞ぐように立ち止まり避けようともしない。
電車では乗る際に人を押し退け際に座ろうとするし、ぶつかっても謝るところか睨みつける。
歩行者道路は自転車優先とばかりベルをしつこく鳴らし、避けなければ文句の嵐。(歩行者優先のはずなのに)
本来なら若者の見本にならなければならない存在のはずがこんな自分勝手の傍若無人な態度じゃそれを見ている若者は同じく傍若無人な態度になっても何も言えない。
完全に負の連鎖。
古くから言われる日本人の良いところとして、性善説やマナーの良さ、親切心は今では懐かしい響きになってきて、あえてその姿を探してみんなで称賛しないといけない現状は悲しい。
前は当たり前のはずだったのに…
今の日本は自画自賛してるだけの情けない状況をバブルを経験した世代をはじめ自分勝手な態度がつくってきたことに、自分は悪くないと周りのせいにして今の状況を創り出してきたことを自覚しないのだろう…
日本人の良さとされてきたものは年配者によって時代遅れと言わんばかりに変えられていくのだろうか。
ガラが悪いのは大阪じゃなく兵庫
何かとガラが悪いと言われる大阪。
全国的にそのイメージがあるのだが実のところはちょっと違うのが実情なのは住んでみるとよくわかる。
全くガラの悪い人はいないかと言うと、そんなことはないのだが、見た目がちょっと…と言うだけで人柄は優しい人や温厚な人が多く、見た目のイメージで損してる感は否めない。
それに反して見た目普通や小綺麗なのだが人間性としてかなりタチが悪いのが神戸を中心とした兵庫。
小学校の連続殺人があった宅間被告の事件やサカキバラ事件をはじめ規格外の凶悪実情が多く発生するのは結構兵庫が多く、規模の大きい暴力団の本拠地は兵庫。
地方議員の不祥事が多いのも神戸だったりとても問題の多い場所。
大阪はスリやひったくりなど小物が多いが兵庫は大物が多い。
どちらがいいという話ではないが神戸が大阪を見下し気味に語る人が多いのに違和感があり、神戸はオシャレで大阪は下品と言ってる前に見た目の批判する前に神戸は人として問題あるのはどうよと言いたい。
マナーは悪い人も多いし、親切な人が少ないのも神戸を中心とした地域。
ただただよくわからないプライドの高さだけは持っている。
関係ないかもしれないが外国人観光客が神戸をスルーするのもうなずける。
見た目のイメージで捉えるか人間性の本質で捉えるか…
人間性としてガラが悪いのは兵庫ではと思うのは自分だけたろうか。
意外と多い人間性障害者
日頃さまざまな場面で出くわすこと。
電車の優先席で身体障害者を目の前にして、見て見ぬ振りで席を譲ろうとしない人。
目の前を確認してもなお携帯を見て知らぬふりや、次の駅で降りるにも関わらず譲ろうとはしない人も。
電車の降車をしようとする人に対して強引に入り込み相手を押し退けても平気な態度の人。
杖をついている人がいても強引に通りぶつかってきたり、倒しても知らん顔の人。
公共施設のエレベーターで障害者を押し退けのる人。
混み合う店で通路を塞ぐように道を譲ろうととはしない人。
などなど…
身体には障害がなく精神も問題ないとされている、いわゆる「健常者」とされる人。
障害者とは認定されていないが、その行動を見ているといつも思うのが「この人たちはかなりの障害があるのではないか」といつも思ってしまう。
それは「人間性障害者」。
人として問題ある行動をとるような人はある種の障害者ではないだろうか。
人として問題がある行動をとるような人を人間性障害者として何か認定する事が出来ればなんて思ってしまう。
認定者は定期的に教育プログラムに参加させるとか、何か目印をつけるとか…なんてこと出来ればなんて思ってしまう。
人に迷惑かけてもやったもん勝ちで迷惑かけられた方は泣き寝入りなんてことも多い昨今。
動画を顔出しでネットにアップして迷惑な人の紹介サイトなんてあれば少しは変わるのかなとか。
健常者と言われる人間性障害者が減るといいのに。
少なくとも障害者や老人などの弱者に海外の人は思いやりのある行動をとる人が多く、それとは反対に弱者に思いやりがないのが多いのが日本。
おもてなしなんて言葉がオリンピックでもてはやされたが、思いやりのないおもてなしはおもてなしとは違うだろうに。
人間性に問題がある人が増えいる今の社会が少しでも変わってくれればいいのにと思う。
脳梗塞とその後の症状で日々感じていること。
脳梗塞で倒れてから2年が経ち、リハビリを続け倒れた当時よりもかなり状態は好転してきた。
とは言え倒れる前とは天と地ほど違いはあるが…。
半身麻痺と発語障害に苦戦する毎日が続いている。
重度障害者認定を受けているくらいだから仕方ないのかもしれないが、今の状態は未だに受け入れられない自分がいてそれがまた苦しい。
中には障害者認定を受けて得してるんじゃない?と言うひとがいるが、それより受けなくていいから元の身体に戻してという気持ちで、そんな心ない事を言う人に「じゃ、代わりになってみたら?」と言いたくなる。
いざ自分がなってみたらと考えもしないから言えるのだろうけど。
日々リハビリをしていても結果が見えてこない日々に何度も挫折しそうになり、虚無感に襲われてそれを無理矢理前向きな気持ちにごまかす日々は、ときにもうおしまいにしたい、朝そのまま目覚めなければいいのになど思うこと多々…。
普通に前向きな時が1〜2割なのが厳しい。
発語障害や身体の痙縮も過度にストレスがかかると症状がひどく、また寒いときも。
普段話しがほぼ伝わらないのに、酷くなると音さえ出なくなるから、そんな時は余計自暴自棄な気持ちになる。
感情面も発症後は上手くコントロール出来なくなり、喜怒哀楽が極端に。
そんな自分がほとほと嫌になる。
周りで心配してくれている人がいるから何とかなっているがいなかったら…。
同じ症状で人に理解されずに苦しんでる人は多く存在していると思う。
そんな人に出会う機会がないのだが、もしそんな人と色々相談したり話せる機会があれば少しは勇気が出るのかな。
仕事も半身麻痺に発語障害には出来ることは見つからず、社会から孤立している感があるから、余計に虚無感と絶望感の時間が多いのかも知れない。
周りでそんな人がいたら何でもいいから関わって孤独感を埋めてあげてもらえたら嬉しいと思う。
少なくとも自分はそうだから…。
悪態つく者には存在無視が一番なのか?
ニュースで騒いでいる暴行問題。
最近暴力をするわれたとして騒ぎや社会的制裁されるなど数多く聞く。
でも果たしてそれらをひとまとめに暴力問題で暴力を振るったのが悪いで良いのか少し疑問を感じる。
暴力は良くないことは明確だが、そこに至るまでに暴力された相手はそうされても仕方がない振る舞いはしてないのか?
例えば悪口や暴言吐いたり、相手に失礼な態度をついて怒りを買うようなことをしてないのか?
暴力に至るまでの経緯は関係なしに暴力だけを取り上げて、そのことだけを批判するのであれば、それを避けるには…。
それは相手の存在を無いものとして完全無視、村八分にするのが一番良い方法なのかも知れない。
何かを言っても絡んできても、完全に無視。
見えない聞こえない無いものとして対応したら暴力は振るわなくていいし、余計な問題もなくなるだろうし。
結果相手が暴力を振るったら問題にするといいし。
本当はそんなことする事はとても寂しく悲しい事だが、今のご時世これが最善の方法なのかもしれない。
こんなんじゃ人間関係の構築や礼儀など学ぶべきことはさておき、何をしても暴力が悪いだけで片付けられる人と状況ばかりにならないかと不安。
人との関わりがだんだん難しい世の中になっていく。
しつけわ教育はなくなり被害者騒ぎが加速する状況をみんなどう感じているのだろう…。